もくじ
フランスの有名人【歴史上の人物】
フランスの歴史上の有名人の名前を様々なジャンルから並べてみます。まずは一覧です。
Louis Vuitton | ルイ・ヴィトン |
Gabrielle Bonheur “Coco” Chanel | ココ・シャネル |
Marie-Antoinett | マリー・アントワネット |
Michel de Nostredame | ノストラダムス |
Jeanne d’Arc | ジャンヌ・ダルク |
Napoléon Bonaparte | ナポレオン・ボナパルト |
Albert Camus | アルベール・カミュ |
Victor-Marie Hugo | ヴィクトル・ユーゴー |
Alexandre Gustave Eiffel | ギュスターヴ・エッフェル |
Eugène Henri Paul Gauguin | ポール・ゴーギャン |
Charles Camille Saint-Saëns | カミーユ・サン=サーンス |
ルイ・ヴィトン
Louis Vuitton Malletier
おしゃれなイメージのフランス。高級ブランドとして有名な「ルイ・ヴィトン」は、フランス発です。
有名ブランド「ルイ・ヴィトン」を作った人物である、「スーツケース職人のルイ・ヴィトン」は、1821年2月2日、スイスと国境を接するフランス東部のフランシュ・コンテ地方、ジュラ山脈のアンシェイ村で生まれました。
ルイヴィトンは14歳の時、家出をしました。旅を続けながら、一年近くかけてやっとパリに辿り着いたとのことです。
その後、フランスの富豪たちの豪勢な衣装を運ぶための木箱を作る仕事をしました。30歳頃には、有名な仕立て屋と仕事をするようになっておりました。やがて、華麗な衣裳の梱包が必要な王室からも指名で仕事を任されるようになります。
1854年、妻と共に世界最初の旅行鞄のアトリエ ルイヴィトンを設立。彼は時代の先を読み、汽車の中でも平積みできる平らなトランクが必要になることを見据えて製作したのです。これが貴族から高い評価を得ました。軽くて丈夫なトランクは、セレブたちの間で人気になりました。
その後、店の評判は海外にも伝わり注文が殺到しました。
1892年、ハンドバッグの生産、カタログの出版など、ブランドは発展してゆきますが、ルイヴィトン自身は71歳の生涯を閉じます。
ブランドの人気が高まるにつれ、偽物の登場も多くなりましたが、ダミエ・ラインや、モノグラム・ライン(ルイの死後に登場)を生産するなど、ブランドならではの対策をとりながら、ルイヴィトンは現在に至ります。
参考サイト:ルイ・ヴィトン ストーリー
ココ・シャネル
ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chasnel)
ファッションデザイナー・企業家・有名ブランド「シャネル」創立者
(1883-1971)
現代のファッション界に大きな影響を与えた超有名ファッションデザイナーです。高級婦人服のみならず、香水、ジュエリー、ハンドバッグのデザインなども手がけます。
- 婦人服へのジャージー生地の導入
- 日常生活における利便性とファッション性
がシャネルの改革だと言われています。
ココシャネルは、裕福な家庭の生まれではありません。一部屋だけの住居にすし詰めで暮らしていたそうです。12歳の時に母が亡くなり、姉や妹と共に孤児院に預けられました。ここでの6年間で、裁縫を学んだのです。
孤児院を出た後は、仕立て屋の職を見つけ、また副業でキャバレーで歌を歌っていました。このキャバレーでのレパートリーの曲「ココリコ(Ko Ko Ri Ko)」がココシャネルという名前の元となっている。
シャネルは芸人としての活躍の場を求めて、ヴィシーに向かいましたが、活躍できずに戻ります。
シャネルが23歳の頃、若くして富豪となったバルサンの愛人となります。ここで乗馬を学び、また上流階級の女性達と話す機会ともなりました。バルサンと暮らしている間、シャネルはそういった女性たちのために帽子をデザインしていました。
彼女が、乗馬のために男性用のズボンを仕立て屋に頼んだことは、当時としては誰もが驚くべきことでした。女性は、ボリュームのあるスカートを履くことが常識とされていたからです。
その後、バルサンの友人カペルと愛人になり、彼の薦めで帽子づくりに専念、パリに「シャネル・モード(Chanel Modes)」を開店します。
その後、当時なかった、女性のための、レジャーやスポーツに適したカジュアルな服装を打ち出します。シャネルは事業を拡大してゆき、英国貴族社交界に加わtたり、ハリウッドで仕事をするなど、超有名なファッションデザイナーとなります。
マリー・アントワネット
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ
Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d’Autriche
長い名前ですね。フランス国王ルイ16世の王妃です。ヴェルサイユ宮殿での豪勢かつ自堕落な生活により、国民の反感を買いフランス革命で処刑されました。
オーストリア女王のマリア・テレジアの娘で、ウィーンで生まれました。14歳の時、フランスの皇太子ルイと結婚します。
フランスに嫁いですぐ、ルイ15世(16世の父親)の寵姫デュバリー夫人と宮廷内で対立します。そして、マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は冷めていました。
やがてフランス王妃になったアントワネットは、形式的な無駄な習慣を簡素化・廃止させました。当時のベルサイユ宮殿には、王妃に直接物を渡してはならない、全王族の食事風景を公開する、などたくさんのしきたりや儀式がありました。
また、王族であるにも関わらず、オペラ座での仮面舞踏会で遊んだり、賭博に熱中。贅沢なたくさんのドレスは貴族達の話題ともなりましたが、そのために国税を無駄遣いしたことも知られています。
子どもができてからは、ルイ16世との夫婦仲も次第によくなります。
マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による首飾り事件は有名です。彼女に関する騒動は絶えませんでした。
1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発、革命が起こりました。国王一家はヴェルサイユからパリ(チュイルリー宮殿)に移されます。
1793年、ルイ16世に死刑判決、ギロチンで処刑されます。同じ年に、アントワネットも、コンコルド広場で処刑されました。
ノストラダムス
Michel de Nostredame
ノストラダムス=フランス人というイメージはあまりないですよね。
「ノストラダムスの預言」でよく知られていますが、実は医師としての活動や、料理研究の著作もあるなど、占い師・預言者以外の顔もあるようです。彼の人生には、様々な預言を匂わせる伝説があるが、その真偽は不明で、後付けされたものである可能性も高いようです。
ノストラダムスは1529年にモンペリエ大学医学部に入学しており、薬剤師の資格を取得していたと言われています。
1550年代から、翌1年間を予言した暦書(アルマナック)の刊行を始めたり、さらに先の未来の『予言集』を執筆。
国王アンリ2世や、カトリーヌ・ド ・メディシスに謁見するなど、王室にもその噂は伝わり、その後は預言者や「顧問」として王室と関わっています。カトリーヌは自分の4人の子どもの将来を占わせたとも言われています。
当時の預言は、当たっていたものも、外れていたものもあるようです。
ジャンヌ・ダルク
Jeanne d’Arc
1412年頃〜1431年。「オルレアンの乙女」として知られている、フランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロインです。
農夫の娘として生まれたが、神のお告げを国王に伝えた事をきっかけにフランス軍に入り、イングランドとの百年戦争での重要な戦いでの勝利にて、シャルル7世の戴冠に貢献しました。
オルレアンの戦いでは、兵士の士気を高めることに成功したことが勝利の要因の一つであったようです。続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献しました。
その後の戦いで捕虜となり、イングランド軍に引き渡されます。異端裁判にかけられ、19歳という若さで火あぶりの刑にされてしまいました。
異端ではなかったにも関わらず(死後に復権裁判により、守護聖人となる)、異端として火刑にされてしまった悲劇の少女。女性が軍人になることが珍しかった当時、ジャンヌの活躍を気に食わないアンチ・ジャンヌ派が、最終的には死に追いやったのではと想像します。
ナポレオン・ボナパルト
Napoléon Bonaparte
フランス革命期の軍人・皇帝。フランス革命で混乱している世情の中、軍事独裁政権を樹立しました。
コルシカ島出身。イタリアに起源を持つ、血統貴族の家系で、12人の子どものうち、4番目に生まれました。
陸軍士官学校では、卒業試験の成績は58人中42位でしたが、通常の在籍期間が4年前後であるところを、最短記録の11か月で必要な全課程を修了しました。この時期に雪合戦で、見事な作戦と指揮で快勝したというエピソードは有名です。
フランス革命後の混乱期のフランスは、「フランス革命政府」と「反革命側反乱軍」が対立していました。ナポレオンは、王党派の鎮圧を行っていた南方軍に所属しており、大砲を用いた作戦で手柄を立て、一気に昇進し、フランス軍を代表する若き英雄となりました。
1796年、貴族の未亡人であったジョゼフィーヌと結婚。
フランス革命へのオーストリアの干渉に端を発したフランス革命戦争が激しくなる中、ナポレオンは連戦連勝し、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得、膨大な戦利品を得ました。
その後の他国との戦いでフランスの情勢が悪くなる中、民衆が総裁政府を批判し始めた時、戦地からパリに帰還しフランスの民衆を味方につけ、クーデターを起こしました。これが政権を握るきっかけとなりました。
1804年には「フランス民法典(ナポレオン法典)を公布。「万人の法の前の平等」「信教の自由」「経済活動の自由」などの近代的な価値観を取り入れた画期的なものでした。
様々な改革を行なったナポレオン政権ですが、実はナポレオン暗殺未遂事件は激化していました。その対抗から帝政を強めざるを得なくなり、反逆者を容赦なく弾圧しました。
戴冠式では、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶりました。この行動により、帝冠は血筋によってではなく努力によって戴冠される時代が来たことを示したのです。
絶頂期には、ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンをのぞくヨーロッパ全土を制圧していました。
有名な観光地である凱旋門は、アウステルリッツの戦いでの勝利を祝してナポレオン1世が1806年に建築を命じたものです。(完成はナポレオン死後の1836年)
その後、遠征の失敗やクーデターなどで失脚、エルバ島に送られた。その後パリに戻り復位したが(百日天下)再び退位し、セントヘレナ島に幽閉され、死去。最期の言葉は「フランス!…軍隊!…軍隊のかしらに…ジョゼフィーヌ!」だった。
フランスの有名人【俳優・歌手編】
今度はフランスの俳優・歌手です。好きな人物の名前は、カタカナのみでなくフランス語のアルファべでも書けるようになりたいですね!
Catherine Deneuve | カトリーヌ・ドヌーヴ |
Alain Fabien Maurice Marcel Delon | アラン・ドロン |
Vanessa Chantal Paradis | ヴァネッサ・パラディ |
Édith Piaf | エディット・ピアフ |
Jeanne Moreau | ジャンヌ・モロー |
Isabelle Huppert | イザベル・ユペール |
Jean Reno | ジャン・レノ |
Emmanuelle Béart | エマニュエル・ベアール |
Brigitte Bardot | ブリジット・バルドー |
Charlotte Gainsbourg | シャルロット・ケンズブール |
カトリーヌ・ドヌーヴ
Catherine Deneuve
1943年10月22日生まれ。フランス・パリ17区出身。
本名はカトリーヌ・ファビエンヌ・ドルレアック (Catherine Fabienne Dorleac)。「ドヌーヴ」は母の旧姓。
10代のころから映画に出始める。ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』のヒットで世界的スターの座をつかむ。
「私の人生の中で最高の時代は40代から50代の間だった」
1980年に公開されたフランソワ・トリュフォー監督の映画『終電車』(80)は、トリュフォー監督最大のヒット作であり、カトリーヌの「キャリアのターニング・ポイント」と言われている。
カトリーヌ・ドヌーヴは別ページで特集していますので、ぜひこちらもご覧下さい!
アラン・ドロン
Alain Fabien Maurice Marcel Delon
映画俳優。身長180センチメートル。1960年代から70年代にかけては、美男子といえばアランドロン。日本でも大変有名で、数多くの作品に出演しています。
アランドロンの父は小さな映画館を経営していました。そのご両親の離婚や再婚により、不安定な子ども時代となり、女生徒とたびたび問題を起こして寄宿学校を転々としたそうです。
17歳で海軍に入隊。銃を扱う芝居の上手さに、軍隊経験が役立ったとされています。除隊後は様々な職業を経験。
カンヌ映画祭にパリを歩いているところをその美貌によりスカウトされ、その三日後にスクリーンテストに合格。
1960年に、「太陽がいっぱい」に出演し、大ヒット。その後も、フランス映画、アメリカ映画、イタリア映画など数多く出演。
音楽活動では1973年に、ダリダとアラン・ドロン『甘い囁き』がヒットした。
エディット・ピアフ
Édith Piaf
フランスのシャンソン歌手。フランスで最も愛されている歌手の一人であり、国民的象徴。
両親は貧しく、エディットを養う経済的な余裕がなかったため、母方の祖母の元に短期間預けられたり、父方の祖母が営むノルマンディーの売春宿に預けられたりした。
大道芸人の父との生活を経て、エディットはパリ郊外で路上で歌うようになる。
その後、ナイトクラブのオーナーであるルイの店に出演。エディットの身長は142cmと小柄だったため、後の芸名となる「小さなスズメ」La Môme Piaf(ラモム・ピアフ)と呼ばれた。彼女の最初のレコードはこの翌年に録音された。
ピアフの代表曲「ばら色の人生」は、第二次世界大戦の占領下に書かれた。
戦後にピアフは世界中から人気を得て、公演旅行をまわる。
モルヒネ中毒に苦しみ、最後は47歳で癌でこの世を去る。
2度目の夫であるテオ・サラポは妻ピアフの死後、妻の残した多額の借金を独力ですべて返済した。
ブリジット・バルドー
Brigitte Bardot
女優・歌手・モデル・動物保護活動家。
父のルイは、「バルドー」というガス会社を経営、母は専業主婦でした。妹に比べ、ブリジットは成績が悪くよく怒られ、両親は妹贔屓であると感じていたそうです。
7歳の時にバレエで賞をもらう。
1948年、150人中10人の中に選ばれて、国立高等音楽院に合格する。15歳で、「Elle」でモデルデビュー。
18歳で映画監督のヴァデムと結婚し、その監督作品「素直な悪女」に1956年に出演。小悪魔的な役回りで有名になる。共演者の俳優と恋に落ち、のちに監督とは離婚。その後も、結婚、離婚、不倫など「自由気まま」な男性遍歴である。
1967年には、セルジュ・ケンズブール「ジュテーム・モア・ノンプリュ」などを歌う。
フランスのマリリンモンローとも言われたが、バルドーは『みんな、モンローかバルドーか?って勝手に並べるけど、私はマリリンのファンなの。だって、私は彼女の足元にも及ばない』と語っている。
1973年の映画を最後に引退宣言をして動物愛護活動に専念する。
2011年、日産のCMソングに、ブリジット・バルドー本人が歌う「Ça Pourrait Changer」が使われる。
2018年、MeTooについて「女優たちの売名行為。偽善的でばかげている」と批判した。
フランスの有名人紹介、いかがでしたか?
著名な方の生い立ちや生き様を知れば知るほど、そのエネルギーとカリスマ性に魅了されてゆきます。
現代を生きるヒントや、強いパワーを与えてくれるようですね。